大町文庫しおり 6

大町文庫しおり 6

青年教師の本間桂先生が村松高校で教鞭をとっていた当時の教え子、
関根忠様より「本間桂先生の思い出」を寄稿していただきました。
私は残念ながら本間先生にはお会いする機会がありませんでしたが、
先生のお人柄、又学生達に向かい合う姿勢など
当時の先生の凛どしたお姿が目に浮かぶような気がいたします。
                 (文責:増田千恵子)
(寄稿)
本間桂先生の思い出    五泉市 関根忠
「大町文庫」が出来てからまもなく2年を迎えるでしょうか。
館内の多くの棚にぎっしりと並ぶ碩学お3方の蔵書にはいつもながら圧倒されます。
3先生の教え子瀬賀先生が私財をなげうって設立され、「一鰭」のご主人と二人三脚のこの文庫が多くの来館者に親しまれていることは、本当に喜ばしいことです。
村上市はもともと城下町で学問が盛ん、文化の香り豊かな地です。
この文庫は、ある意味市の中心部に位置するのに最もふさわしい建物の一つではないかという気さえします。
私は3人の碩学のお一人、本間桂先生の古い教え子ですが、村上高校ではなく五泉市の村松高校で教えを受けました。
当時は戦後の混乱がようやくおさまり新制高校も発足してほぼ10年ぐらい経過したころでしたが、本間先生もまだ30歳代に入ったばかりの青年教師でした。
教科は英語でした。 しかし先生の情熱と背後に在る古今東西の該博な知識が授業を教科書の範囲にとどめて置かず、しばしば脱線に及びました。
その特色は「教える」というより「語る」ことにあったと言えるかもしれません。
ややもすれば灰色で無味乾燥な暗記に陥りやすい英文法も、先生が情熱をほとばしらせて「語る」授業の中で東西の文学や芸術と結びつき、 鮮やかないろどりを以て迫ってくるのです。
私たち生徒はその「語る」情熱の中に引き込まれ、「快い音楽を聴くように(瀬賀先生)」陶然となり、胸をときめかし、学問の世界への憧憬をかきたてられていったのです。授業で先生に心酔した私たちは、しばしば先生のお宅にお邪魔しました。
お宅は村松町の町はずれにある借家で、見るからにみすぽらしく、冬は寒いすきま風が忍びこんでくるような庵でした。
しかし中へ入って通された部屋には英仏独の洋書、漢籍、仏教書その他の蔵書が天井まで積み上げられ、 特に座卓越しに話される先生の背後に箱入り大判の「正法眼蔵」全巻が異彩を放っていたことを思い出します。
他にどのような本があったかはもはや記憶ありませんが、当時のこれらの書籍も今きっと大町文庫の一角に並んでいるのではないかと思います。
私たち高校生の未熟で青臭い文学論でも本間先生は決して無下にされず、真剣に耳を傾けてくれました。
瀬賀先生が「どんな質問でも受け止めてくださる」と述べられたのはまさに正鵠を射た表現だと思います。
確かにその通りどのような生徒でもその大きなふところに受け入れ、長所を取り上げて鼓舞し、 欲を奮い立たせて伸ばしてやるのが先生の教育法でした。
村松高校の若い時代からそうだったのですから、村上高校ではさらに円熟を加え、ますます多ぐの生徒を魅了したことでしょう。
多くの教え子の方々が先生を慕い、没後の今もこの大町文庫を訪れたり墓参をされているのも肯けるところです。
「稀代の知識人」本間先生は、実はいつか作家として中央文壇に登場することを秘かに目指しておられ、草稿も書き溜めておられたようですが、それらが陽の目を見ることは結局ありませんでした。
作家となる夢を果たせなかった先生ですが、教育者としては比類の無い圧倒的な存在であったことを、教えを受けたどなたも認められるに違いありません。
今、大町文庫の書架の前に立つと、先生の書物と生前のお姿が重なってきます。
そしてこれらの膨大な書物の一冊一冊に先生の魂が宿っているような気がします。
さらに、現今では入手の困難な書籍、図書館でもなかなか見つからない貴重本なども数多くあり、 八木先生、天嶋先生の蔵書と合わせて、大町文庫は大げさにいえばこの地の「学問の館」であり「知の殿堂」ではないかとさえ思えてくるのです。いつまでも来館者の方々に 愛され、書物に触れる楽しみや知の世界への喜びへ誘う存在であってほしいと心から願うものです。